そしていつか①
わたしはハタチまで、厳密には35歳になろうとしている今に至っても自分という個の存在が浮遊するシャボンのようで今にもパンと弾けそうに生死をさまよっている。
よく言う愛を知らないとか、虐待とか、精神を患っているとか、難病だとか、PTSDだとか、自己否定感、希死念慮など、裏切り、人間不信、簡単に言えばそんなところだろうか。
幾度となく死のうとしてみるのに、そうできないのはやはり生への未練がましい気持ちがあるんだろう。
患いながらも理性が働いて
命への敬意と執着があるのだろう。
闘った全てのものがゴミのようになることへの恐れがそうさせているのかもしれない。
事実、病気が死にたいと感じさせる。
何かに似ていると思った...
そう、集団自決や心中とはなんと心強いものなのか。孤独の淵に居ながら孤独でない感じや恐怖が複数人で死することで消えたりするのだろうか。
わたしにも大切にしている事や楽しみが無いわけではない。
瞬間、幸福だと感じたり感動したり均衡のとれた考えができる時もある。
社会の仕組みや作法も多少は知ったつもりでいたし。
逃げる為にお酒や薬、本能に身を任せたことはあるけれど、立ち直ろうと決意し己を知らなくては進まない解決への道を失敗しながら何度も立ち上がり這いつくばって曲がりなりにも歩んできた。
学ぶことも死に抗うことも愛を知ろうとしたことも自分と向き合うことも祈ることもしてきたのだ。弱さも失敗も認めてきたし、人や家族や社会を恨まないように生きたいと許したいと生きているのだけれどそう上手くはいかないもの。
負った傷を眺めてばかりいてはいけないと走っても苦しい。
絆創膏はすぐにはがれてしまうし、治療法など誰も知る由もない。
生きる覚悟、
わたしにとってそれは
なみなみならぬ体力と心の有り様が求められる訳でただ生きることをさぼってるわけじゃなくて
放棄してもおらずに『必死』にやっているわけです。必死に起きて、必死に息をし、目の前の信じ難い事実を受け入れようと冷静になろうと自立に向かおうと心が悲鳴をあげているんです。
水を飲んで床に座っていることさえも、必死な行為で誰かに何かを伝えようとかいうのもそれはもう疲れてしまうから自分で自分のことくらいして欲しいと、申し訳ないのだけど何にもできないわたしが思ってしまう。
背負ってしまった自分がいけないのか、背負わされた荷がたまたま良くなかったのかどちらも正解で重たくて、とっくの昔にもう潰れてしまった。
苦しみで心がさみしくなってしまった。
強くなるどころかすり減った靴底のように役に立たなくなってしまった。
心が機能し続けることで、混乱をきたして
まだ機能したかと思えば考え疲れてしまい
ぼーっとなったり、なんにも考えなしにいたら
突然苦しみだしておそろしさを増していく。
この繰り返しに、耐えて息をする。
なみなみなぬ曲がったら生死への情熱は、それを追わない人間への軽蔑に変わる。間違った考えだと分かっていながらのらりくらりと生きていけることへの半分は羨ましさなのだろう。
もしかしたら、ただ羨ましさだけかもしれないけれど。それが要求や試そうとする行為に変わりやすいことを知っているから、良くないと思う。
人一倍、立派な人に優しい人になりたいと強く願ってやまぬわたしも、
死にたいと強く願い苦しむわたし。
どちらも同じ人物、ひとりのわたしなのです。
そしていつか、美しいと思える瞬間を心の生きた組織のどこか遠くで見てみたいと感じる。
そしていつか、と思う希望の私もその一人です。